2014-07-26

コピペ論文について

巷では理研小保方氏のSTAP細胞に関するNature論文における捏造,剽窃(コピペ)問題が世間を騒がせている.ひいては早稲田大学の学位論文審査の妥当性にまで飛び火している.

本稿では,かつて経験したコピペ論文の扱いを例に,思う所を述べたい.

<論文審査システム>
 卒業論文の審査は主査(例えば指導教員),副査(他研究室でその分野に精通してる教員),その他の審査員(その学科の教員全体)で為される場合が多いと思う.指導教員が主査になれない所も少なくないように,大学,学部によって相違はある.たとえば卒論が不要(卒業研究レポート,発表などで評価する)な大学・学部もある.博士学位論文では,学外の専門家に加わってもらうことも少なくない.

 正直,論文を隅々まで読むのは指導教員(主査)と副査までである.一般の審査員は,通常,概要集が事前配布されるが,論文本体は当日回覧であるところが多いように思う.
 そんなシステムのなか,,,

<ことの起こり>
 以前,ある論文(学部卒業論文)の副査にあたり,事前に配布された該当論文を読んでいた.すると奇妙なことに気づいた.研究の原理部分に記載された図が,数年前に私が指導した学生の修士論文に載せた図にソックリだったのだ.
 それで,過去の論文を引っ張り出してみると,その章の図だけでなく,16ページ中15ページにおよび文章まで同一であることがわかった.思い起こせば,その学生の先輩が,私の所で開発した手法を適用してみたい,ということで,元の修士論文のPDFを送ったことがあった(これはよくあること).それが卒論生にわたっていると推測された.実際,論文の最後に参考文献として,その修士論文が挙げてあったが,当該箇所に引用はなかった.
 結果はさすがに当人の研究室の装置で得られたものであったが(そうでないと有無を言わせずアウト),原理手法の開発もオリジナルな研究である.同じ研究室の先輩の一子相伝の手法なら,100歩譲ってまだ理解できないわけでもない(当然それでもコピペ/丸写しは原則ダメ)が,他研究室で開発されたものを適切な引用なく,しかも文章を含め非常識な量コピペするのは明らかな御法度である.

<審査会での対応>
 審査会で,学生の発表後,副査が試問する.指導教員には(心の準備をしていただくため)事前にその旨を報告し,「私はこれを読んで怒っています.怒っている理由がわかりますか?」で試問を始めた.
 その時の学生の反応は,きょとんとしており,罪悪感がまったく見られなかった.なぜ私が怒っているか理解できなかったようである.

 罪悪感がないのは明らかである.なぜなら,「私」を副査候補として挙げるのは,学生本人であるからだ(もちろん指導教員とは相談する).もし,後ろめたさがあったならば,審査で論文細部を読むことになる私は副査候補から外したであろう.そうしていれば,何事もなかったかのようにその場で卒論合格となった可能性も高い.原理部分なので,「教科書丸写し」の感覚だったのでは,と推測する.指導教員は必ずしもテーマ細部の専門とは限らず,しかも投稿論文ではなく修士論文であったので,これに気づくことが困難だったことは想像に難くない.( 実は,その修論をまとめなおして英文化し,投稿論文にしようと考えていたが,忙しさにかまけてサボっていた負い目もある....)

<結末>
 結果,(詳細経緯は機密であるが)審査会議で,その学生の卒論合否判定は保留となり,年度内卒業ができるギリギリの日程に,あらためて再審査を行うことになった.
 その経緯は私の研究室の修士論文と当該卒論とを見開き左右に配置し,上層部への報告書を提出した(ひと仕事だった).
 再審査において,私は副査として,原理を表す図,および文章はコピペでなく,自分で作図,執筆するように要求した.研究者としては引用してもらうほうがいいのだろうが,本件は教育的指導のつもりだった(本人にそのメッセージが伝わったかどうかは正直わからない).再審査の後,卒論は無事に合格となった.

 もちろん学者(の卵)であれば即アウトであるが,卒論はまだ研究のスタートラインでしかない.意図するしないにかかわらず,過ちも多々ある.研究者の卵として身を立てることができるかどうかをいわば採決する博士論文とは,やはり位置づけが異なる.このような”未遂”はけっこうあちこちで起きているのではないか,と推測する.同時に,すり抜けているものも....本件,私を含めた審査員はその時点での判断として最善を尽くしたと思っている.

  以降,卒論審査では卒論配属時に剽窃(コピペ)について厳しく警告する(すなわち即アウトとする)方針となった.

<感想>
 思い起こせば,その数年前頃より,レポート課題を出すと,立派だが似たり寄ったりのレポートが提出されることが気になりだしたように思える.こちらも対抗手段で.その文章を検索エンジンで検索し,オリジナルを探して,丸写しか咀嚼しているか考慮して採点するようなこともしていた(けっこうな労力であった).
 そうして,私が課すレポートは調査よりも計算問題にすることが多くなっていった.同じ写すなら,コピペよりも友人のノートを書き写すほうがまだ力になると思ったからだ.加えて,レポートには「参考文献,ウェブサイトを明示すること.議論した友人があれば名前をあげ,謝意を示すこと.これは研究者としての最低限のマナーです」と添えるようにした.大学時代演習担当だった恩師のレポート課題(難題)の出し方に倣った.
 統計をとったわけではないが,謝辞に友人を挙げたレポートは徐々に少なくなり,個人がインターネットから探してくるほうが主流になってきたような気もする.

                                                                        ------ 以上,2014.4.24 執筆 (当時未公開)  -------

<STAP騒動>
    上記の回想を書き記して,しばらくたった.「早稲田大学大学院先進理工学研究科における博士学位論文に関する調査委員会」が,小保方氏の学位論文についての所見を公表した
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本研究科・本専攻における学位授与及び博士論 文合格決定にいたる過程の実態等を詳細に検討した上で、「上記問題箇所は学位授与 へ一定の影響を与えているものの、重要な影響を与えたとはいえないため、因果関係がない。」と認定した。
(http://www.waseda.jp/jp/news14/140717_committee.html)
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 このような報告書の大変さは身に染みている(↑^^)
  しかし,情報が多いと,かえって本質を見誤ってしまうのではないだろうか.

学位論文の審査は複数の研究者によってなされる.これが前提である.私を含め,研究者が論文を評価するときは,多かれ少なかれ,以下を基準とするはずである.難しい条件あれこれはもともと苦手な人達の集団である(..よね?).

(1) 序論
 これまでのその分野における背景を適切な引用のうえに紹介されているか.
 その中での自分の研究の位置づけが明確にされているか.
(2) 原理
   オリジナルの場合には,一般的に再現,適用検証が可能なように書かれているか.
      オリジナルでない場合には,適切な引用がなされ,自分の言葉で説明されているか.
  当該研究に則した改良,工夫点が明確に論述されているかどうか.
 (その際にも先駆者への配慮が適切になされるべきである)
(3) 結果
  オリジナルな成果であるか(=対象投稿論文の内容).
  論文の趣旨に「意味のある」データであるか.
  自分の過去の投稿論文のデータであれば,それが明示してあるか.
  (通常,他者の論文のデータは入る余地がない)
(4)  考察
  結果をもとに合理的に書かれているかどうか.
  先例があれば,それを支持する結果となっているか,あるいは反例となっているか.
  (ここではもちろん他者の論文との比較等はあり得る)
(5)  総括
        この結果が当該分野に与えるインパクト,今後の展開など確固たる主張があるか.

このなかで,学位に該当する資質と業績があるかいなかは,(3)結果と(4)考察がすべてといって過言ではない.(1)序論や(2)(オリジナルでない場合の)原理は,審査前であれば,書き直させる指導ができる.しかし,結果や考察は,本人の数年間の蓄積であるので,本人の力量が試されるところ,さらに,だれもが経験するこの苦労は,自分で研究者としてやっていけるかどうかの洗礼でもあるだろう.
 この(3)で,証拠となるデータの信頼性がないのであれば,論外である.剽窃や捏造であれば即アウト.論文審査にあたる相応の専門家からみて,はたしてどうなのであろうか?これは審査員群の力量も試されるところであったはずである(のだが....).
 
 学位剥脱の是非判断は,(STAPの問題と先入観は切り離して)この点を中心になされるべきと思う.序論のコピペは(もちろんダメはダメで,審査すれば落第であるが),学位取り消し判定を左右するかといわれればまだ小さい(ルールに従えばアウトだが程度次第では温情の余地はあるという意  ---  本件は程度を越えてそうではあるが...).
 極端にいえば,いったん学位を剥脱したとして,イントロを書き直せば,同じ論文で再審査して合格になる,ということは起こり得る.今回,こうする解もあると思う.それに対し,実験をやり直して,,,というのは到底あり得ない.

(推測であるが)芋づる式に,過去の他の学位論文の検証へと波及するのを恐れた「政治的判断」なのではないだろうか(朝日新聞記事参照).内外で物議をかもしそうである.いずれにしても,この報告は学位取り消し判定についての大きな基準となるであろう.

                     (2014.7.21  執筆: 7.26 迷いつつ公開)

(覚書 2014.4.10)
https://twitter.com/plasmankado/status/454197070832758784
https://twitter.com/plasmankado/status/454197248100810752
https://twitter.com/plasmankado/status/454197801212051456

<学位取り消しの事例>(ざっと調べた限り)
D(博士)
http://www.waseda.jp/jp/news13/131021_degree.html
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_220723_j.html
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_231209_j.html
http://www.kyushu-u.ac.jp/pressrelease/2009/2009-08-05-01.pdf
http://www.dokkyomed.ac.jp/dmu/news/20120827-1686.html
http://www.oita-u.ac.jp/01oshirase/gakuihenkan.html

M(修士)
http://www.jukushin.com/archives/10900
http://www.tsukuba.ac.jp/news/20111215160642.html

B(学士:卒論)
http://sfcclip.net/news2004090301 (awardの取り消し)



<余談:論文審査>
 以前,イタリアの工科大学の修士論文審査に呼ばれ(交換留学のような形式で私が日本での指導教員),出向いた時は,副査2名で,その副査からのコメントに対応した後,公聴会となる.公聴会には,親,親戚が聴きに来ることも多い(わけわからん発表でも子供の晴れ舞台,ということ).公聴会の審査は,(当時)点数制ではなく,合議制であり,平常を見ている指導教員(主査と私)の意向が強かった.(ここまでは日本の審査に似ているが,このあとが面白く)点数は卒業式で一人づつ発表され,フルマーク(Maximum と言っていた, 学科で数名)だと拍手喝采で盛り上がる.私の弟子はフルマークをもらい,私の鼻も高かった^^.

 最近では,公平性という名の下,点数制(審査員全員で点数をつける)を採用するところも増えているように思うが,どちらも一長一短である.

 副査の選び方も様々であり,同じ分野の専門家が並ぶ場合もあるが,幅広い分野から審査される場合もある.たとえば,核融合プラズマ計測がテーマであれば,過半数をプラズマ実験の専門家が占める場合もあれば,プラズマ物理,核融合システム,エネルギープラント,光工学,データ解析,シュミュレーションの専門家で多角的に見る場合もある.指導教員は読んでいることが前提であろうが,副査の差(アタリハズレ?)は実際大きく,あまり読まずに要点だけかいつまんで,発表の際に試問する副査も少なくない.それが本質であったり,ど真ん中の専門家だと気づかない視点であったりもするので,一概に悪いとも言えないところが微妙である.

 無理なルール適用は,ルールに沿うこと自体が第一目的になってしまいがちである.私は,こと学術研究に関しては,あまり画一的に「こうあるべき」という型にはめない方が最適解に収まるような気がしている.
  ---- ただし,これは学術の性善説,自浄作用が前提にあることは確かである......




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